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青木先生からの回答

 ジェスミン・ウォード『歌え、葬られぬ者たちよ、歌え』に解説を寄稿しました青木耕平です。中山悟視先生には大変お世話になっております。尊敬する中山先生のゼミ生の皆様から質問をいただけたことをとても嬉しく思います。

 私自身の専門・研究領域は主に「1990年代以降の現代アメリカ文学」であり、ジェスミン・ウォード自体の専門家というわけではないことを先にお断りした上で、可能な限りいただいた質問に答えていきたいと思います。

 

 このたびは質問をありがとうございました。あらためて『歌え』に向き合う素晴らしい機会でした。私の回答が皆様の学びのお役に少しでも立てたなら光栄です。

 

青木耕平

質問:この作品にとって、「歌」とはなにか。

青木:大変重要かつ、大きな質問だと思います。「この作品にとっての歌」とは何かを答えるためには、「アフリカン・アメリカンにとって歌とは何か」を考える必要があると思います。

そのため、まず読んでいただきたい小説は、本作の先行作品の一つであるトニ・モリスン『ビラヴド』です。ギヴンとリッチー、二人の幽霊のインスピレーションの源に、奴隷制から逃げるために実母より喉を裂かれた黒人の女の子「ビラヴド」がいることは、ウォード本人が認めている通りです。『ビラヴド』も「歌」が非常に重要です。母に殺された幼児ビラヴドが、それから時を経て、肉体を持った女性として訪ねてくるところから物語が始まります。突如として家にやってきた女性が自分の娘「ビラヴド」であると母が気づいたのは、ビラヴドが「歌」を口ずさんだからです。生霊ビラヴドは母そして家に憑依します。生気を失っていく母親を救い出そうと、物語はそのクライマックスで近所の黒人女性たちが大合唱で歌を歌います。すると、ビラヴドは消えます。

 小説『ビラヴド』の舞台は南北戦争が終結した直後の19世紀後半でしたが、南北戦争直前を舞台とした『それでも夜は明ける』(12 years a Slave)もこの問題を考える際に観ていただきたい一本です。なぜ黒人奴隷たちにとって歌が重要なのか?それは、彼らは教育を奪われていたからです。彼らは英語を喋れはしましたが、書くことはおろか読むことさえできませんでした。そのとき、彼らを結びつける芸術は歌でした。ゴスペルの誕生です。辛い時も悲しい時も、彼らはゴスペルを歌ったのでした。

 そのゴスペルの派生にあるのが黒人霊歌=スピリチュアルです。日本でも「聖者の行進」として知られる “When the Saints Go Marching in” は、黒人の葬式で埋葬後に流れるものでした。

 さて、以上のことから考えると、タイトルともなっている『葬られぬ者たち(Unburied)』が効いてきます。差別を受け、埋葬さえされなかったリッチーたちがテーマとなる本書において、「歌」とは彼らを葬るためのものだ、とまずは言えるでしょう。だからリッチーは200頁13行目で「俺は歌の一部になる」と言うし、ラストシーンで多くの葬られぬ者たちが歌おうとするのではないでしょうか。ただ、それ以上に詳しいことは、正直いって私もわかりません。この問いに答えることができれば、それは立派な卒業論文となるでしょう。

質問:この作品に出てくる「家」とはなにか。

青木先生:素晴らしいクエスチョンです。この質問をされた方は、じつは鋭く翻訳の限界点を指摘しておられます。実は翻訳では英語 “house”そして “home” をどちらも「家」となっています。たとえば199頁最後ですが、これを原文に照らして訳すと、

「Homeというのは必ずしも場所とは関係ない。俺が育ったhouseはすでになくなっているしな……それにもしhouseが残ってたとしても問題はそういうことじゃない」

となります。ご指摘いただいた箇所の家も “home” です。146頁の「おれもかえる」は原書ですと “I’m going home” ですし、物語最後のケイラの「うちにおかえり」は “go home”です。また物語最後の一行、<帰ろう>も英語では “home” です。本書における “home” は、これほどまでに重要な言葉です。

 本書では埋葬されていないリッチーたち、最後の死者の大群は、 “go home” できずに彷徨い続けています。これを人類の話にまで拡大すれば、帰るべきhomeとは天国ということになるでしょう。しかし、アフリカン・アメリカンの物語であると捉えた場合、そのhomeとは祖先が強制的に連行されてきたアフリカ大陸を指します。ただ、奴隷制初期の黒人を除き、現代アメリカの黒人たちにとってアフリカは「先祖の土地」ではあるけれど「ふるさと」ではありません。はたして人種差別が跋扈するアメリカは、現代の黒人たちにとってhomeと呼ぶべきものになれているのか? そのような批判的眼差しがここにあるのは間違いないでしょう。

 ただもちろん、これも一つの答えでしかありません。これも突き詰めれば卒業論文のテーマになると思います。

質問:白いヘビとウロコの鳥は何者なのか。

青木先生:これも大変根源的な質問ですね。本書は動物たちが多く登場します。それは大体なにかのメタファー/比喩です。たとえば冒頭のヤギの解体ですが、ヤギというのは古代宗教で神に捧げる生贄の動物でした。パーチマンのシーンが象徴するように犬は奴隷制において黒人を迫害する動物でした。このように考えると、まずは白い蛇は旧約聖書における悪魔です。そして黒い鳥は不吉なものをもたらすものでもあります(E.A.ポー『大鴉』など)。

 ただ、本書における動物をすべて西洋キリスト教的なもので理解することは一面的です。「かあさん」ことジョジョたちの祖母が、ヴゥードゥーの巫女のような存在であることが大きいでしょう。ヴゥードゥーとはキリスト教とさまざまな土着宗教が混ざり合ってできた民間信仰で、西アフリカやそして本書舞台のアメリカ南部にも根付いていて、ジョジョがリヴァーから渡される小袋等はその文化のものです。西アフリカのヴゥードゥーでは、「神様は動物の形をしている」という言い伝えがあります。そうなると、白い蛇と黒い鳥は、不吉なものであるとも言い切れません。

 蛇は「地を這うもの」であり、鳥は「大空を飛ぶ」ものです。蛇は呪われたもの(アダムとイブ)であると同時に、権力を司るもの(モーセ)でもあります。ビートルズはキング牧師などが率いた差別撤廃運動である公民権運動のために「ブラック・バード」という曲を書きました。トニ・モリスン『ソロモンの歌』にも多くの鳥が出てきますし、日本だと黒い鳥=カラスは不吉なものでも力強いものでもありますよね。(『ハウルの動く城』のハウルが良い例です)

リッチーたち「葬られぬものたち」は鳥の姿で移動できますが、homeには帰れません。黒い鳥は死であり、魂であり、冥界のイメージも付与されています。このように、さまざまな意味が鳥と蛇をはじめ動物たちに重ねられています。ですので、ぜひご自身お一人お一人で本書における鳥と蛇をはじめ動物の意味を考えると大変楽しいと思います。

質問:レオニが薬物を摂取しているときにしか現れなかったギヴンが、レオニの唱えた祈りによって、周りに見えるようになったのはなぜなのか。 

青木先生:これも上記の「ヴードゥー」と関連します。レオニの祈りはまさに苦しみの中にいる「かあさん」こと祖母(逆上したリッチーに連れ去られようとしている)に、安らかな死という救済を与える呪術だと考えることができるでしょう。かあさんは死者を見る能力を望んだのに与えられず、レオニはそれを持っているけれど、マイケルと結婚したという後ろめたさゆえにそれを周りに言えずにいた。レオニが強いヴードゥーの素質を持っていることが明らかとされるとき、ギヴンが姿を表す。つまり、「秘密が暴露される瞬間」が重なっています。(それがさらに物語のクライマックスと重なるところにこの小説の見事さがあるのですが)

 リッチーは「パーチマン」という歴史の悲劇を背負っていますが、ギヴンは現代アメリカの人種差別の犠牲者であり、リッチーと異なり血縁者です。ご指摘されているように、リッチーとギヴンは同じゴーストでありながらも、その背負うものが違っており、そのどちらも本書は取り入れるために二人のゴーストを必要とした私は考えています。(皆さんはどうですか?)

質問:兄であるジョジョと妹のケイラの能力は違うものであるのか。

青木先生:この問題も上記と関連しています。死者を見る能力は女性に受け継がれていたものなのに、ジョジョはリッチーを見るし、ケイラも見る。しかしおそらくジョジョにはリッチーは少年として見えていてケイラにはとりのように見えている。ただし、ケイラが実際にどう見えているのかは、この小説の語り手とはならないので読者にはわからない。またそもそもケイラは幼いのでそこまで判別がついているのかわからない。ですので、現時点のこたえは「わかりません」というものになります。

 ただ、これはもしかして未来にわかるかもしれません。ジェスミン・ウォードは長編小説三つ全て「ボア・ソバージュ」を舞台にしています。お時間ある方はぜひ『骨を引き上げろ』を読んでいただきたいのですが、実は『骨』の主人公たちが一瞬『歌え』にも登場していたのでした。本当になにげないシーンですが、『骨』を読んだ人たちはそのシーンを読むことで『骨』の主人公たちの「物語の後」を知ることができたのでした。ウォードはいつか、将来的にまた「ボア・ソバージュ」を舞台に小説を書くでしょう。きっとそこでジョジョとケイラに私たちは会えます。その時を楽しみにしましょう。

質問:206頁、5行目にてリッチーが見た風景はなにか。

    →あの世?現世との対照的な世界?リッチーの理想の場所?

青木先生:264頁のことですよね?「川は逆向き」に流れ「海から始まって陸で終わる」というのが良いですね。ここでは過去と未来がひっくり返されています。また高層ビルが咲き誇っているので、物語舞台の地方的な風景とも異なっています。そして、リッチーはその世界に属していません。このシーンは最も抽象度の高いシーンなので、いくようにも解釈可能だと思われます。あの世でもあり、現世との対照的な世界でもあり、リッチーの理想の場所でもあるのではないでしょうか。

この直前に「ウロコの鳥が風にもまれながら俺を連れて渡ってくれる水」という表現があり、またラストのギヴン対リッチーもそうであるように、本書では「川を渡る」というのがとても大切なメタファーです。日本だと「三途の川」という表現があるので馴染み深いですが、ギリシャ神話にも死者が渡る川があります。そのうえで、本作の「とうさん」の本名が「River」つまり川であることが重要です。この幻想的な場所に、リヴァーなら連れて行ってくれるのではないか? リッチーのリヴァーへの執心は、そのような願いが重なっているのでしょう。

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